【高校生物】チャールズ・ダーウィンの生い立ちと業績【コラム】

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大学で生物学の面白さを再確認し、大学院で進化生物学に関わる研究をする中で(勝手に)私の身近な人物になっていたチャールズ・ダーウィン

彼の人生と業績は、私たちに自然に対する深い理解と、真摯な探究心の大切さを教えてくれます。

高校生物でも、系統や進化の単元で登場しますが、そんな偉大な科学者の一人であるチャールズ・ダーウィンについてのエピソードをまとめてみました。

重要そうな場所を中心にまとめてみたのでプリントにコラムとして入れたり、授業の小ネタとして雑談に盛り込んでみたりしてみてください。

 

チャールズ・ダーウィンの幼少期

集めることが好きな少年だった

チャールズ・ダーウィンは幼いころからいろいろなものを集めることが大好きだったそうです。

子どものころは、イギリスの田舎を歩き回って石を集め、家ではコイン、海に出かければ貝殻を集め、昆虫採集もしていたとのこと。

集めたものの名前を調べ、ひとつひとつにラベルをつけた…というエピソードがあります。

 

兄と一緒に科学実験するのが好きだった

チャールズ・ダーウィンは兄が1人、姉が3人、妹が1人の6人兄弟です。

8歳の時に、母親は6人の子供を残して亡くなってしまったそう。父親は優しかったが、医者としていつも忙しかったため、チャールズを近くの寄宿学校に送り込むことにしました。

しかし、シュルーズベリ寄宿学校での、ギリシャ語やラテン語の勉強はあまり好きではなかった様子で、いつも教室の外をうろうろ歩き回っていたり、家に走って帰ったり、釣りをしたり、本を読んだりしていたそうです。

この時のチャールズが好きだったことは、兄の手伝いとして、一緒に化学の実験をすることでした。家の道具小屋を実験室にして、怪しげな気体や化合物を作っていたので、「ガス」というあだ名がついたそうです。

 

学校を転々とするチャールズ

勉強そっちのけで実験ばかりしていたチャールズに学校の校長は腹を立て(もちろん成績もよくなかったので)、父親はこの学校をやめさせてしまいます。

そこで、兄の通っているエジンバラ大学で、将来、医者になるための勉強をさせようとしました。

しかし、医学の勉強もチャールズにとっては興味がなかったみたいです。手術の見学の時に、最後まで見ていることができずに逃げ出したというエピソードが。

結局2年後にその大学も退学させられ、今度はケンブリッジ大学で牧師になる勉強をさせることにしましたが、牧師になるための勉強も彼には興味がありませんでした。

チャールズは勉強する代わりに昆虫採集に励み、植物学の授業に顔を出すようになります。

そして、ケンブリッジ大学のヘンズロー教授と親しくなります。ヘンズロー教授は、植物学を専門として教えており、それ以外にも動物学地質学にもいろいろ精通していました。

 

研究者として航海へ出発

世界一周へのチャンス到来

父親を喜ばせようと、その後猛勉強をして大学は無事に卒業できました。そして、チャールズに思いがけないチャンスが訪れます。

ヘンズロー教授を通じて、南アメリカを探検して世界一周して戻ってくる航海に参加しないか?という誘いが!

最初は父親が「無謀な計画」と言って反対していましたが、チャールズの叔父の説得があり、父親はついに航海への参加を認めます。

そして1831年、チャールズを乗せた英国軍艦ビーグル号5年にわたる世界一周旅行へと旅立ちました。

船酔いに苦しみながら、港に着くたびに下船して、島々や海岸を探検して回ります。行く先々で化石や昆虫、鳥、動物、植物などさまざまなものをあつめました

チャールズは目にするものすべてに驚き、素晴らしい生き物を作り上げた神の存在を強く感じるようになったそうです。

 

生物の楽園、ガラパゴス諸島

WEBMASTER, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

航海の終わりごろ、ガラパゴス諸島に立ち寄ることになります。

1835年9月15日から10月20日までガラパゴス海域に滞在したとのこと。

チャールズはこの島の地質の様子にとてもワクワクしたはずです。

黒い溶岩でできた岩に覆われ、巨大なカメやイグアナがはい回っているユニークな島々

火山を探検し、めずらしい植物や動物を集めることができました。

イギリスの船が来る3年前に別の国によって統治されていたガラパゴス諸島。もしタイミングが早ければガラパゴス諸島はイギリスの物になっていた可能性もあった…とナチュラリストガイドさんがおっしゃっていました。

ガラパゴス諸島で熱心に集めることになったのは、でした。

チャールズはそれらの鳥を、すでに存在している、フィンチ、クロウタドリ、ムシクイ、ミソサザイなどの別の鳥のなかまだと思っていました

これらの鳥が、この後チャールズの運命を変えてしまうわけですね。

 

イギリス国内でのチャールズ・ダーウィンへの評価

イギリスの科学者の間で有名になっていた

実はチャールズの航海と並行して、イギリスでは科学者たちの間で、彼の名前が広く知られるようになっていました。

航海中にヘンズロー教授に宛てた手紙や標本を、教授がみんなに見せていたからです。チャールズは自分が集めたものを惜しみなく専門家に提供しました。

イギリスに帰国したチャールズは、専門家からの返事を受け取る中で、驚きの事実がわかります。

鳥類学者から、「チャールズがいろいろな種類の鳥だと思っていた標本は、すべてフィンチだった」ということを知らされます。

くちばしやからだの作り、短い尾羽や羽のようすが、それを証明しているとのことでした。

嘴だけ見ても、長いもの、短いもの、太いもの、細いもの…といろいろあるので、それらが全部同じだとは信じられなかったみたいです。

 

新しい疑問が浮かぶ

この出来事をきっかけに、「おなじ祖先から誕生し、少しずつ姿かたちを変えた?」という考えを持つようになります。

この考えは、当時のメジャーな考え方とはまったく異なります。

聖書では創造主である神がすべての動植物をいまある姿のまま作ったという風に教えられていたからです。

もちろん、チャールズもそれを信じていましたが、自分が集めてきたものを調べれば調べるほど、専門家の意見が集まれば集まるほど、生き物が長い時間をかけて少しずつ姿を変えてきたことは間違いないように思えました。

チャールズは生き物の種についての自分の考えや疑問点を特別なノートにまとめて書き留めていました。

もし、このノートを誰かに見られたら、聖書を信じていないと思われ、教会への反対意見を発表すれば神への冒涜だとみなされ、牢獄に入れられてしまいます。そのため密かに研究を進めていたわけです。

誰にも告げることはなく、科学者として自分の発見をよく理解しようとする努力をしていたのは尊敬します。

 

「自然選択」に辿り着く

種が形を変えてきたのだとしたら、その原因は?

ダーウィンのノートの一部

その後チャールズは結婚し、イギリスの静かな田舎に移り住んで、増えていく子供たちに囲まれながら、仕事に取り組んでいたといいます。

病気を抱えながらも、仕事に集中し、秘密のノートは1冊1冊と増えていきました。

この時にチャールズが疑問に思っていたのは「もし、種が形を変えてきたのだとしたら、その原因はなにか?」ということでした。

その答えを教えてくれたのは、何気なく読んだ「人口論」という本です。

世界の人口は、ずっと増え続けることはできません。食べものが足りなくなって人々が飢えてしまうからです。これと同じことが動物たちにも当てはまると考えました。

生まれてきた動物がすべて生き残るのではなく、それぞれの種を逃げ足の速いものや食べものを見つけるのが上手いものが生き残っていく…という考えです。

種が姿を変えていくことも、この考え方で説明できることに気づきました。

首が長く生まれたキリンほど、高いところにある葉を食べることができ、食べものが少ない厳しい時期を生き延びることができます。

つまり、首の長いキリンは生存に適していて、その特徴である首の長さを子孫に伝えていく…時間の流れとともに種は姿を変え、新しい種が誕生します。

この考え方を「自然選択」と呼びました。のちには「適者生存」とも呼ばれるようになります。

ガラパゴス諸島で見たフィンチもこの理論で説明できます。

  • 太いくちばし⇒木の実の殻を開けるのに適している
  • 細長いくちばし⇒木の皮の下にいる昆虫をほじるのに適している

キーワードとしてはニッチ生態的同位種などをチェック!

 

 「種の起源」を出版

チャールズの科学者の友人たちは、この考えについて発表するように熱心に進めましたが、(批判を恐れていたため)本人の覚悟がまだできていませんでした。

しかし、アルフレッド・ラッセル・ウォレスという若い科学者がとても似た説を考えているということを知り、急いで本の出版をすることに。

1859年、あの有名な「種の起源」という本を出版しました。

 

色々な意見が飛び交った

実際に反論の意見はあり、昔からの友人であるヘンズロー教授でさえやんわりと「すべての考えに賛成できるわけではない」と伝えたそうです。

議論がうずまく最中、チャールズの病状が悪化して、本人は家に引きこもるようになりましたが、彼の身の回りの友人・科学者が、世界中から注目をあつめるこの理論の擁護をしてくれたそうです。

当時は1000部ほど発行されて、あっという間に売り切れたそうです。今でも増刷が繰り返されて、世界中で何百万冊も売れています。

 

生涯をかけて「進化論」を深めていく

たくさんの本を執筆した

その後もダーウィンの仕事は続き、「人間の由来」という本の執筆に取り掛かったといいます。

探検の先々でみた先住民についてのノートの記述を見直し、ロンドン動物園でオランウータンを観察する中で、「サルとヒトは同じ祖先を持ち、どのように変わってきた可能性があるのか」という考えをまとめたのでした。

お察しの通り、これも「サルと一緒にするな!」的な批判が多数あったみたいで、有名な風刺画を見たことある人も多いはず…。

生物学を勉強していくと、どうしても宗教的に受け入れられるのか?という分野や生物学的事実があり、欧米でキリスト教を信仰する科学者はチャールズ・ダーウィンのように苦労したのではないでしょうか。

チャールズ自身は、「神の存在にはなんの疑問もない」という結論に達していたそうです。

「これほど、すばらしいものに満ちた宇宙を作ったのは、神以外には考えられない!」という感じですね。

その一方で、自分の理論が正しいことも信じていて、「人間を含めたすべての生き物は自然の一部であり、その自然はつねに変わり続ける」ということを生涯を通して示そうとしていました。

 

生物学に大きく貢献した偉大な科学者

1809年生まれのチャールズ・ダーウィンは1882年73歳で亡くなりました。

謙虚なタイプでもあったチャールズは、おそらく、自分が歴史上もっとも偉大な科学者の一人になるとは考えていなかったと思います。

彼が生涯で書いたたくさんの本たちは、いずれも科学の世界に新しい考え方をもたらすことに大きく貢献し、世界中の人々の生物に対するものの見方を変えるものでした。

進化論の提唱者としてだけでなく、科学者としての真摯な姿勢や、自然に対する深い愛情でも、世界中の人々から尊敬されています。

 

参考文献・サイトなど

Webサイト

日本ガラパゴスの会

Wikipedia(チャールズ・ダーウィン)

Britannica

 

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